たのしくも悩ましき、春の夢

もうすぐ不惑のひとの、惑わないブログ

タカラヅカファンが帝劇ミュージカル「モーツァルト!」を観て来た感想

 

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〝帝劇モーツァルト〟を観てきました

普段はタカラヅカばかり観ているオタクの感想です

的はずれなところがあったら(あると思う)ご容赦ください

 

銀橋(ぎんきょう)がある!(銀橋って言わないだろうけど)

和音美桜ちゃんだ!(感動)

タータンさんの歌。。(感涙)

終始そんな感じ

 

 

 

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香寿たつきさん

香寿たつきさんは、天海祐希さんがトップさんで大好きだった頃の雪組のスターさん、なイメージだ。その後トップさんになったのはもちろん知っていたけど、宝塚時代を生では知らない

でも圧倒的な歌声に、ただその歌声がすごいってことに涙出た。懐かしいとすら思った。自分でもびっくり

パパが〝お前の居場所はここだ自分の庇護下だ〟って言っていて、ボルフガングは〝ウィーンで自分を試したい〟って争っている。その横でタータンさんが最初は役として、途中からは背景に溶け込んで歌っていた

この背景にいつの間にか溶け込む感がすさまじかった。バルトシュテッテン男爵夫人(舌噛みそう)から何か神々しい、天使(というには貫禄ありすぎるな)えー、世界を説明するコロス?みたいに変化するのが圧巻だった

その間ずっと〝なーりーたーいーものになるためー〟とか歌っているの。歌いながら舞台上で役から役じゃない別の何かになってしまうの。鳥肌だった

一瞬、舞台を離れて自分がもっとずっと若かった時の気持ちになる。タータンさんがわたしに向かって〝なりたいものになるために、親元を出て行け〟って歌ってくれている

もちろん妄想ですよ。でもその瞬間、世界にはわたしとタータンさんの歌声しかなかった。すごくパーソナルな体験で、涙が止まらなかった

おかげでその間パパと息子が何をしていたのか、全く覚えていない(笑)

私が劇場に来る理由は、こういう瞬間があるからなんだと思う。自分にとって奇跡みたいな瞬間があるから、同じ作品でも、たとえ作品自体が気に入らなくても、足しげく通うのだ

タカラヅカ以外の舞台で、なんで自分はタカラヅカファンなのかを、初心を思い出した心持ちになった

 

和音美桜ちゃんと木下晴香さん

和音美桜ちゃんもよくは知らない。わたしがタカラヅカの舞台にしつこく通い出した頃にはOGの方になっていた

でもいまだに〝ちゃんづけ〟で呼んでしまうイメージの人だ。姫役者。お姫様がよく似合うひと

最初の幼い設定の時の、鈴を転がす様な声が、あーヅカのひとだー!という感じ

ヒロインの木下晴香さんも可愛かったけれど、声があと一歩なのに!と感じてしまうのは、前半で和音美桜ちゃんの姫ボイスを聞いてしまうからだな、きっと

あるいは単にわたしが救い難いヅカ脳で、いわゆる〝娘役〟の声じゃないと、ヒロイン感薄いと感じてしまうせいかも

元ジェン(元タカラジェンヌ)が一切出ていない舞台なら、木下晴香さんのヒロインに何も不満はなかったと思う。〝踊る時だけが忘れられる〟ていう歌詞が出て来るナンバーの時、かっこよかった。かっこよすぎて舞台のヒロインというより、映画に出て来るヒロインって感じは否めなかったけれど

顔もちっちゃくて足長くて、山崎育三郎さんと並んだ時も絵みたいで可愛かった

 

山崎育三郎さん

山崎育三郎さんですが、名前だけ知っていてようやくちゃんと舞台を観れた

どことなく元雪トップ壮一帆さんに似ている。頰のこけた感じとか。あー壮ちゃんだーと思ってしばらく観てしまったw

1幕最後のナンバーが一番印象に残ってます。銀橋に出て来てセンターで歌うの。役に入り込まれていて、別の世界を見ているボルフガングが、ああやっぱ常人の住む世界と違うものが見えているひとなんだ、と思わせてくれた

こう、キラキラ感はあんまないんだけど(意外)存在感はめっちゃある。またヅカになってしまうけど、それこそタータンさんのトップ時代のお姿みたい。いぶし銀の魅力?

タータンさんは下級生時代から、オッサン落ち着いた魅力のスターさんでした。。

山崎育三郎さんのボルフガングは、うわついた感じがあんましうわついて見えない、ちゃんと色々悩んでいる現代の青年の様に見えるのが面白かった。で、銀橋でナンバーを歌うと異星人感が出る、みたいな。。不思議

カッコよかったです。ヅカの男役を見慣れているせいで、男性が男を演じるのを観て生々しいと感じるかと思ったけど、そうでもなかった

山崎育三郎さんの持ち味なんでしょうか。あんまり男男してないのがよかったのかも

別の舞台も観てみたいと思いました 

 

銀橋だ…!ん?銀橋?

銀橋、銀橋(ぎんきょう)って書いてるいるけど、銀橋じゃないよね?エプロンステージ?

ヅカのと違って本舞台から銀橋にかけてまた橋がある。ヅカでスターが銀橋に出て来る時って、舞台の端までたっぷり歩いて、からの、銀橋来たーという感じなので、あれってかなり特殊なんだなって今更気がついた

たっぷり時間とってあるから、銀橋にスターが出て来た瞬間に拍手!とか生理的にできるんだ(もはや生理的)

帝劇ミュージカルはそんなにエンタメしていないので、スターさんが銀橋に出たからといって、それだけで拍手は起こらない

やー当たり前なんだけど、なんだけど、、やっぱりスターさんが本舞台から橋渡って銀鏡にあっさりでてくるの、不思議な感じがしてしまう

すっかりヅカの慣習に毒されている慣らされているなわたし、と思わされた

 

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ストーリーについて

結局最後にボルフガングは自由になれたんだろうか?

多分なれてない。自分の才能(わかりやすく子役が擬人化している。かわゆい)アマデと一緒に死んじゃう。才能に殺されました。おわり。。

ていうのがえーっだった

もうちょっとこう、悩み苦しんだ向こうに、精神の、魂の自由みたいのを感じられるかと思ったんだけれども、最後まで父親の亡霊に取り憑かれたまま死にました、みたいに見えた。いわゆる心理学でいう〝父親殺し〟に失敗したまま果てたのがかわいそうだったな

それに、才能を撒き散らして死ぬって、あんなに辛くて苦しいものなんだろうかとちょっと疑問に思った

もっと楽しい、下々のものにはわからない恍惚の内に死んじゃってくれても良かったんだけれど。そういうのを期待して観ていたからおよよ。。という感じ

 

「アマデウス」に似ているところが気になる 

この作品、ところどころ一時期どハマりした、ハリウッド映画にもなった「アマデウス」を彷彿をさせるところがあるのですよね

舞台は観ていないけれど、映画は100回くらい観た

最後のレクイエムを、才能に支配された様に狂った様に、書きながら死んでしまうところとか、レクイエムを依頼しに来る謎の男がボルフガングに父親を連想させる姿かたちをしているところとか

謎の男が仮面をつけてやってくるビジュアルは、まさしく映画のまんまだ

史実では〝仮面をつけた男が依頼してきました〟なんておそらくどこにも載ってないだろう。だから余計に「アマデウス」からの引用じゃないかと思えた

 

あとコロンド大司教。モーツァルトの才能の向こうに神の意志を見る人という設定が、「アマデウス」のサリエリのキャラと被る

でもサリエリと違ってコロンド大司教はなにがしたいのか、今ひとつわからない。多分こうだ、というのは分かるのだけど。。

神の真理が知りたい人なのよね?だから自分に曲を捧げろ、て出て来るたびに言っているのは、ボルフガングを手元に置いて、彼の曲を通じて〝神の声〟を感じたかったのかな?と思った

あるいは聖職者の自分に曲を書けというのは、=神に書け(捧げろ)てことなのかもしれない

でもこれは想像。本当のところは、偉人とされた人の脳みそをコレクターしている人だし、単に神に愛された才能を手元に置きたいちょっとサイコな人なのかもしれない

その辺が良くわからなかった。魅力的な役なんだけれど、敵役としてもうちょっとわかりやすくしてくれーと思った

「アマデウス」でサリエリは凡人の自分と、その自分だけがモーツァルトの天才を見抜いているという理不尽にもだえる。で、神に復讐しようと、神の申し子モーツァルトを殺そうとするんだけれど、そういう分かりやすい〝敵〟がいないものだから、ストーリーとして盛り上がりに欠ける感は否めない

全く違うならともかく、ラストが「アマデウス」と似ているものだから、それまでのストーリーに不満が出てしまった

 

レディ・ベス再び…?

あと不満というか、単に好みの問題なんだろうけれど、クンツェ&リーヴァイって「レディ・ベス」でオリジナルキャラと、エリザベス女王を恋愛させた人たちだ

史実の彼女にはロバート・ダドリーという有名な恋人がいたのに、他にも恋人たちはいたのに、それをまるっと無視してオリキャラと恋愛させてて白目になった

オリキャラと歴史上の人物を絡めるのは、いろんなジャンルでいろんな人がやっているけれど、上手くやらないと、たいていオリキャラ=作者だから、白けてしまう

…というのを、今回の「モーツァルト!」でも劇場の人が出て来た途端に思ってしまった

あ、作者だ。作者出て来たー!

や、気にならない様にやってくれればいいんだけど。クンツェ&リーヴァイの作風だとなぜか私は気になってしまう

せっかく物語に浸りたいのに、いかにも作者の分身が劇中に分かりやすく出て来ると、作者の自己愛が強く感じられて、興ざめしてしまうのだ

そんなに重要人物じゃないからまあいいんだけれど。レディ・ベスは全編辛かった思い出がある

 

父と息子

結局描きたかったのは父親と息子の葛藤なんだと思った

母親は出て来たと思ったら一言も喋らず死んだ(ひどい)

姉は弟を恨んでいるとも愛しているとも両方とれる、多分どっちもだ

恋人で妻になるコンスタンツェは、家族共々足を引っ張る存在だ
彼女という理解者を得てボルフガングが、精神的に安らぐシーンがあれば良かったのに

作者の関心は、しかしながら主に父親と息子の関係性に向けられている

この父親、毒親といっていいのではないかというくらい、息子を信じない。独立を認めない。自分が天才を〝創った〟と思っている

最後に和解のシーンがくるかと思いきや、上にも書いたとおり終わり方は「アマデウス」だったので、一体なにがしたかったんだろう?

もしやM.クンツェさんか、S.リーヴァイさんのお父さんの話なのかしらこれ

そうだとしたら、ちょっと史実に個人的な話を投影しすぎでは…と思った

エンターテイメントなんだから(だよね?)観客(私)が望むものを見せてくれ、と思う

それとも、作者の人生を反映した芸術作品だからアートだから、これでよいという事なのだろうか

 

タカラヅカで上演しないわけ

演出家は宝塚出身で、ヅカファンに根強い人気の小池修一郎先生だし、「モーツァルト!」の楽曲は今までヅカ関連で聴いてきた。コンサートとかあちこちで

だからどうしてタカラヅカで演らないんだろうとずっと疑問だったけれど、できないわコレ

ヒロイン像が、トップ娘役の役らしくない、ヅカファンが求めるものじゃないというのもあるけど、一番はストーリー

このままじゃボルフガングの次に重要な役はパパだ。2番手がトップのパパを演じる「ファントム」再びだ。そして親子の和解がハイライトになるというヅカらしくない展開にw

でも「モーツァルト!」じゃ和解すらしないから、ヅカ的に落としどころがない

ヅカ的な落としどころといったら、やっぱり〝愛〟だ。この「モーツァルト!」に愛はどこにあるのだろう?多分ない。ボルフガングは父からも妻からも望んだ愛を得られず、神にだけ愛されて、天賦の才と共に天国に召される

ヅカファンには受けないだろうなあ。。

愛が困難に打ち勝ったシーンがないと、タカラヅカでは上演できないんだ

 

また帝国劇場にも行こう

たまには外部の舞台(ヅカファンは救い難くヅカ中心主義なので、ヅカ以外の舞台をこう呼ぶ)も観に行くべきだと思った

ヅカ文化圏の中にいると気づけない、ヅカの魅力について色々思うことになった

そしてやっぱり、作品の魅力<役者の魅力なのは、ヅカじゃなくても同じだなと思った

だって、「モーツァルト!」のストーリーが受けているとは思えないんだよね。最後は神に愛されました、で終わりよ?キリスト教文化圏の人なら納得の終わり方なんだろうか

やっぱり渾身の力で舞台上にマジックを再現する、役者の魅力あってこその舞台だと思う

 

舞台って面白い!

 

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